フランティシェク・オンドジーチェク

父親はヴァイオリニストで指揮者のヤン・オンジーチェクである。
プラハ音楽院に学び、その後はヘンリク・ヴィエニャフスキの支援を得てパリ音楽院に2年間留学し、首席となった。
ドヴォルジャークの《ヴァイオリン協奏曲 イ短調》作品53が1883年10月14日にプラハで初演された際に独奏者を受け持ち、同年12月2日のウィーン初演でもヴァイオリン独奏を担当した。1880年代後半にウィーンに定住して教鞭を執った。1909年にはヴァイオリン奏法に関する専門技術的な論文を発表している。
第1次世界大戦後にプラハに戻り、プラハ音楽院でヴァイオリンのマスタークラスを主宰した。

古代ギリシア演劇

古代ギリシアでは、劇場は丘などの斜面を削って建造された。野外劇場だが、演者や合唱隊の声がよく届くよう音響効果の優れた構造が取られている。
劇場全体はすり鉢状になっており、底の部分に俳優が演じる舞台と、合唱隊用の平土間があった。
客席は、すり鉢の斜面部分に、舞台を半円形に囲うように作られた。
収容人数は最大規模のもので2万人程度と言われている。
現代の劇場でも、古代ギリシアの劇場の様式を模したり、なんらかの形でそのコンセプトを取り入れているところは少なくない。
日本では、彩の国さいたま芸術劇場の小ホールや新宿コマ劇場などがある。

カラーライン

カラーラインを最初に用いたのは、ボクシング初代世界ヘビー級王者のジョン・L・サリバンだった。
サリバンは、西インド諸島出身の黒人ボクサーだったピーター・ジャクソンの実力を恐れ、対戦を拒否するためにカラーラインを使った。
第4代世界ヘビー級王者のジェームス・J・ジェフリーズは、王座在任中はカラーラインを用いて黒人との対戦を拒否した。
第7代世界ヘビー級王者で、黒人であるジャック・ジョンソンがマン法で逮捕され、パリに逃亡すると、1913年1月1日にアメリカのプロモーターは勝手に新たに世界ヘビー級タイトルマッチを行い、白人同士で世界王者決定戦をやらせた。
もちろん、この世界戦は正規の世界戦として認められておらず、現在は、この試合で勝ったルーサー・マカーティは王者として認められていない。
こうして妙な世界ヘビー級王者になったルーサー・マカーティはカラーラインを宣言し、黒人との試合を拒んだ。
なお、マカーティは世界王座防衛戦直前に落馬し、首の骨を折って試合中に倒れた。そしてその直後に急逝した。
こうした出来事の原因には、強さの象徴である世界王座をどうしても白人の手に戻したかった背景があった。

カリガリ博士

本作は、精神に異常をきたした医者・カリガリ博士と、その忠実な僕である夢遊病患者・チェザーレ、およびその二人が引き起こした、ドイツ山間部の架空の村での連続殺人についての物語である。
本作は、登場人物の一人であるフランシスの回想を軸にストーリーが展開する。
初期の映画では直線的なストーリー進行が大半を占めたが、本作品は、その中でも複雑な話法が採用された一例でもある。
冒頭では、二人の男が会話を交わしている様子と、その横を茫然自失のようであてどもなく歩く、美しく若い女性が描かれる。
若い方の男は、その女性が自分のフィアンセであること、そして二人が体験した、世にも奇妙な体験の回想を連れの男に語り始め、これより回想シーンが続く。