カール・マンハイム

ブダペストに生まれ、ブダペストとフライブルクで学び、1914年にベルリンでゲオルク・ジンメルの教えを受けた。
その後さらにパリとハイデルベルクでも学び、1918年に博士号を得た。翌1919年にドイツに移住し、1922年から1925年までアルフレート・ヴェーバーのもとで働いた後、1926年にハイデルベルクで私講師に、1929年にフランクフルト大学社会学科正教授に就任。
1933年にアドルフ・ヒトラーが政権をとったためイギリスに亡命し、ロンドン大学講師を経て、1946年にロンドン大学教育学部の主任教授となる。
1947年にロンドンで没。
彼は、どんな思想もその立場や時間に拘束されているという思想の存在被拘束性を指摘し、知識社会学を構想した。
思想の存在被拘束性を乗り越え真理に近づくためには、全体的視野から相関や歴史を見ようと立場を自由に浮動する知識人になるべきだとした。

タッカー

タッカー車は51台しか完成していないのだが、映画撮影当時で47台もが現存しており、愛好会の全面協力により現存している実車のほとんどが動員されてスクリーンに登場している。
刑事裁判で詐欺事件の被告人となったタッカーが最終弁論で陪審員席に向かって、自らの信じるアメリカの自由・正義・未来を訴え「もし大企業が斬新な発想を持った個人を潰したなら、進歩の道を閉ざしたばかりか自由という理念を破壊することになる! こういう理不尽を許せば、いつか我々は世界のナンバーワンから落ち、敗戦国から工業製品を買うことになる」という演説と、それを本気にせず笑う聴衆、という場面が印象的に描かれている。

ジョルジュ・メリエス

学校を出ると、2人の兄と共に実家の靴屋を手伝うようになり、そこで縫い方を習った。
3年間の徴兵を経て、父によりロンドンに行かされ、一家の友人のもとで事務員として働く。
ロンドン滞在中にエジプシャン・ホールでジョン・ネヴィル・マスケリンのイリュージョンを目にし、ステージ・マジックに熱中するようになった。
1885年、エコール・デ・ボザールで絵画学びたいという新たな希望を抱いてパリに戻った。
しかし芸術家になるなら資金援助しないと父が言い張ったため、実家の工房の機械を監督することで妥協した。
同年、兄の義理の妹との結婚話が持ち上がったが、それを拒否してウジェニー・ジェナンと結婚した。
彼女は一家の友人の娘で、かなりの持参金を持たされていた。
その後2人の子、ジョルジェットとアンドレをもうけた。

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